一会一生(いちえいっしょう)

広島市東区にある正廣寺(しょうこうじ)副住職の気ままなブログ

いつでも会いに

10月になりました。今日、車でラジオを流していたら、神無月についてのお話が聞こえてきました🚙

日本では昔から(昔と言ってもいつくらい昔なのか私は知りませんが)10月のことを神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼んでいます。通説では、毎年10月に出雲の国(島根県)で日本全国の神様が一堂に集まって大会議が行われるため、その間他の国では神様がお留守でいらっしゃらない、というところから神無月と言われるそうです。逆に神様の集まる出雲の国では神在月(かみありづき)と呼ばれるようです。そんな内容でした。

 

私は神道(しんとう)のことは全く分からないので、素人の素朴で無知な疑問で恐縮ですが、神社にお参りしても神様がお留守だったら、せっかくお参りされた方ががっかりされないだろうか、なんてどうでもいいことを思ってしまいます。

 

もしお寺にわざわざお参り下さった方に、「ようこそお参り下さいました。ところでせっかくお参りいただいたのに申し訳ありませんが、ただいま阿弥陀さまは出張に出ておられて留守でございます」なんてことになったら悲しすぎます😢

 

もしかしたら神無月にはもっと深い意味があるのかもしれませんし、私の勝手な私見で神さまのことを述べることはできませんが、ここで阿弥陀さまのことだけを申しておきますと、阿弥陀さまという仏さまはお留守で会えないということはありません。なぜなら、いつでもどこでもどんなときでも、私の人生を常にご一緒してくださる仏さまであるからです。

中国の曇鸞大師(どんらんだいし)という高僧が書かれた『往生論註(おうじょうろんちゅう)』という書物には、阿弥陀さまのお徳の一つとして、「身(み)本処(ほんじょ)を動(どう)せずして、よくあまねく十方(じっぽう)に至(いた)りて」とお示しであります。ちょっと小難しい表現ですが、たとえば、お月さまが夜空の上にありながら、その月の光は分け隔てなく人々に届き照らしてくれるように、阿弥陀さまもその身はお浄土にありながら、大悲のはたらきはあらゆるところに届いて下さるということです。

ですから阿弥陀さまはお留守でいらっしゃらないということはありません。それどころか、いつでも私に会いに来て下さってある仏さまです。

時をも言わずところをも嫌わず、「なもあみだぶつ」とお念仏申す今ここに、阿弥陀さまはご一緒して下さってあります。

浄土真宗のお寺は阿弥陀さまの願いとはたらきに遇(あ)う場所です。いつでもお参り下さい。

なもあみだぶつ。