『地蔵さまの村』というお話があります。
ある村に一人のお坊さまがやってきて、村人からあたたかい施(ほどこ)しを受けられました。お坊さまはそのお礼に、二体のお地蔵さまを置いていかれました。
一体は何でも願いを叶えてくれる「聞く地蔵」、もう一体は何の願いも叶えてくれない「聞かぬ地蔵」。
お坊さまは「聞かぬ地蔵の方にお参りしなさい」と言って村を後にされましたが、村人たちは「どうせ参るなら聞く方がいい」と、こぞって聞く地蔵さまにお参りしました。
「お金持ちになりますように🙏」
「病気が治りますように🙏」
すると本当に願いの通りになり、みんな大喜び。村人はみな殿様のような暮らしを手に入れ、病気や災害もなく、村は幸せにあふれていました。
しかし困ったこともおきました。何でも願いが叶うので、人々は真面目に働かなくなりました。さらに、「隣の家よりもっと豪華に」「あいつよりももっとお金持ちに」というように、お互い比較し合い、妬み合う心まで生まれ、ついには他人の不幸をも願うようになってしまったのです。
「あの家が貧乏になりますように🙏」
「あの人が病気になりますように🙏」
その結果、豊かで幸せだった村は、たちまちに不幸な、争いの絶えない村になってしまいました。
そんなとき、あのお坊さまが再び村を訪れ、「いいかげんに目を覚ましなさい」と村人を諭(さと)されました。
村人はようやく己の愚かさに気づき、それからは以前のように真面目にはたらいて、今度は聞かぬ地蔵さまにお参りし、ただ日々の感謝に手を合わせるようになったということです。
聞く地蔵さまは、人間の願いそのものが煩悩(ぼんのう)に満ち満ちており、欲に溺れて欲望の趣くままに生きることは、他を傷つけるだけなく、自らをも傷つける生き方となることを教えてくれる地蔵さまでありました。
そして聞かぬ地蔵さまは、平穏な中にも、たとえ逆境の中にあっても、おかげさま、有難うと喜べる道があることを教えてくれる地蔵さまでありました。
本当の幸せってなんだろうかということを考えさせられるお話です。
写真は一年前に京都大原三千院で撮った、わらべ地蔵です。法話の内容とは関係ありません(^_^;